ピョートル・ストリャルスキー
ピョートル・ストリャルスキーほどの偉人についてにわか仕込みで語るのは無謀なことと知りつつ、偉人なのにネットには日本語の情報がほとんど出ていないのでざっくり紹介します。
ピョートル・ストリャルスキーとは?
ピョートル・ストリャルスキー(Pyotr Solomonovich Stolyarsky)は、ソヴィエトのバイオリニストでバイオリン教育者。教育者としての顔のほうが有名です。
以下、例によって本家Wikipediaから。
1871年11月30日生、1944年4月29日没。ソヴィエトは1918年までユリウス暦を使っていましたが、誕生日はグレゴリウス暦に換算したものです。ユリウス暦で言うと11月18日です。
1939年にはウクライナ連邦共和国人民芸術家(People's Artist of UkSSR)の称号を得ています。同じ1939年から晩年はソ連共産党員でした。
生まれは今で言うウクライナの首都キエフに近いルィーポヴェツィ。ワルシャワに移ってスタニスワフ・バルツェヴィチの教えを受けます。バルツェヴィチはポーランド生まれ、モスクワでピョートル・チャイコフスキーその人から直接教わった、生粋の東欧人です。ストリャルスキーはのちにオデッサに移って、作曲家としても知られるエミル・ムイナルスキに教わります。ムイナルスキはアウアーの弟子なので、ストリャルスキーにもアウアーの血が入っていると言えますが、まあその点は軽く見ておくのが話としては簡単になると思います。理由は3点。
- 当時の有力なバイオリニストはほとんど例外なく、直接間接にアウアーに教わっている。
- ストリャルスキーは後述のごとく、ジンバリスト一門などの西欧系スクールとはかなり独立した一門を形成する。
- ストリャルスキー一門は主にソヴィエトなど東欧地域を中心に活動している。
そんなわけで、ストリャルスキーの主成分は東欧であるということにしておきます。
ストリャルスキーは21歳か22歳の1893年にオデッサ音楽学校を卒業します。同じ1893年のうちにはオデッサ・オペラハウス・オーケストラのメンバーに。1898年からは教職に就いています。1912年には自分の学校を持つに至った…とありますが、それが1933年開校のストリャルスキー音楽学校の前身なのかはちょっと検証が大変そうなので飛ばします。今回は長丁場なので。
1919年からはオデッサ音楽院の教職、1923年には教授に。さらにオデッサ・バイオリン演奏学校とソヴィエトバイオリン学校の創設にも参画します。
教育者ストリャルスキーの業績は、1935年に花開きます。ヴィエニヤフスキー国際バイオリンコンクールで、ストリャルスキーの教え子のダヴィート・オイストラフが2位、ボリス・ゴリトシュテインが4位とダブル受賞を果たしたのです。このときジネット・ヌヴーが優勝しているわけですが、ヌヴーには飛行機事故で早世したという以外にこれといった話題性も魅力もなく、なぜか人気のブラームス協奏曲を聞いても「なぜ??」という印象しかないのは周知のとおりです。
かたや、ストリャルスキーの弟子たちは1937年にもう一度波を起こします。ウジェーヌ・イザイ・コンクール、つまり今のエリザベート王妃国際音楽コンクールの前身にあたる大会で、またもストリャルスキーの教え子が上位を独占します。
ストリャルスキーの教育方針は、ごく小さい天才児を相手に早いうちから高度な内容を教え込むというものだったようで、ストリャルスキー音楽学校にも(天才児のための)という枕詞がついています。
Wikipediaにはストリャルスキーが労働赤旗勲章をもらったともありますが、ここも詳細不明です。
ストリャルスキーに教わった重要人物のひとりに、ナタン・ミルシテインがいます。ただミルシテインは同時にアウアーの直弟子でもあったり、のちにアメリカに移住したりと、ちょっと異色の経歴を持っています。あとは僕が個人的に好きすぎるというわけもあって、ミルシテインはいずれ別項目で語りたいと思います。
ここでは東欧にとどまり「ストリャルスキー系列」とでも呼ぶしかない一派を形成した人々を駆け足で紹介します。
ダヴィート・オイストラフ
世の中的には「ポスト・ハイフェッツ」は誰かと言われればダヴィート・オイストラフ(David Fiodorovich Oistrakh)ではないでしょうか。日本語版Wikipediaでは項目名が「ダヴィッド」となってますが、本文では「ダヴィート」で綱引きがあるようです。
ロシア語のДавидは、ロシア語がわからないのでこういうのを聞いて「ダヴィートかなあ…」と思っていますが、Wikipediaの中ではかなり揺らぎつつ「ダヴィト」がやや人気ですね。ついでにイーゴリ・オイストラフの名前がなぜかДавид Дави́дович Ойстрах(ダヴィート・ダヴィトヴィチ・オイストラフ)と書かれてるのも見つけてしまいました。イーゴリどこ行った。
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オイストラフがはじめての人におすすめの一枚がこれ。なんせ67曲6時間入ってお値段たったの900円なので。
僕はト短調シャコンヌ、通称ヴィターリのシャコンヌが好きです(本当はヴィターリ作じゃないとか知ってますのでそういうくだらないツッコミはなしでお願いします)。
あとサラサーテの「ナヴァラ」も好きです。
ダヴィート・オイストラフはどんな人?
オイストラフは日本でも大人気なのでここで詳しく紹介する必要はないでしょう。「これぞストラディバリウス」という感じの明るく優しい音色を出す人です。
オイストラフは演奏家としても大人気でしたが、教育者としてもバイオリン史上重要な位置にいます。
オイストラフは東欧系スクールの頂点としてストリャルスキーの次世代を担いました。オイストラフに教わった人で有名な例を何人か挙げます。
オレグ・カガン
オレグ・カガン(Oleg Kagan)は日本でも人気が高い人ですが、僕はあんまり好きじゃないです。というかオイストラフ門下生に好きな人がほとんどいません。
1965年のシベリウスで優勝、1966年のチャイコフスキーで2位、1968年のバッハで優勝してます。Wikipediaにはジョルジェ・エネスク国際音楽祭で入賞したとも書いてありますが詳細不明です。
カガンの演奏は震える高音とかでナルシシスティックに聞かせるタイプです。デュメが好きな人はカガンも好きだと思います。デュメが好きな僕がなぜカガンは好きじゃないのかとなると説明に困りますが、デュメにはどこか振り切った厨二感と言わんか、「チープでも人気こそが正義なのである」という種類の割り切りがあるような気がします。カガンはカラヤンとかホロヴィッツが幅を利かせてた時代の人なので、そっち方面のノリでなんとなく行けちゃったんじゃないかと思います。
あとカガンは全体にあんまりうまくない気がします。とか言うと詳しい人に怒られそうですが。普通に音程外したりしてるような。スヴィアトスラフ・リヒテルと組んでたわりにはヌルい感じです。リヒテルは神だと思いますが、そのリヒテルがなぜカガンと組む気になったのかわかる境地を目指していきたいと思います。
ギドン・クレーメル
ギドン・クレーメル(Gidon Kremer)は言わずと知れた、現役バイオリニストの中で世界最強クラスの影響力を持っている人。人気で言っても、クレーメルより上はイツァーク・パールマンとかそういう方向性しかないんじゃないかという気がします。
1967年のエリザベートで3位、1969年のパガニーニと1970年のチャイコフスキーでは優勝してます。
マーラーのピアノ四重奏曲とかの録音は僕も好きです。ほかにもギュンター・グラスとシニートケとか、クレーメルが決定盤かなと思う曲があります。
レコード店なんかでずらっと並ぶ「クレーメル」の行列を見ると、「クラシックはSEOだ」と思わされます。クエリボリューム(曲の知名度)×検索順位(流通している録音の中で一番人気になれるか)の総和がサイトのアクセス数(演奏家の人気)になるわけで、クレーメルは知名度がやや低めの曲でも決定盤になれるものをたくさん見つけて録音し、存在感を積み上げていったんじゃないかと思います。
別にクレーメルがせこい手で稼いだと言いたいわけではありません。同じことはハイフェッツもオイストラフもやってます。ハイフェッツがスコットランド幻想曲を流行らせたのなんて、見ようによっては自作自演みたいなものですが、「ハイフェッツが演奏してるからいい曲に違いない→いろんな人が演奏→やっぱりハイフェッツはすごい」というサイクルを回すまではやっぱりそう簡単ではないわけで、確かにスコットランド幻想曲は素朴な意味で「知られざる名曲」だったのでしょうし、大勢の人が演奏しても色褪せないハイフェッツの演奏は素朴にすごいと言うべきでしょう。クレーメルもそういう立場にいるのだと思います。
ただクレーメルが演奏したからミェチスワフ・ヴァインベルクが流行るかとなるとちょっと疑問を感じます。
僕個人としては、クレーメルは全体になんか雑な感じの演奏が多くてあまり好きではありません。マーラーは好きと言いましたが、そのマーラーにしても真面目に聞くとけっこう粗が目立ちます。クレーメルの演奏スタイルにはミッシャ・マイスキーとかと似たイメージを持ってます。
エミー・ヴェルヘイ
オランダのヘルマン・クレバース門下生として語ったほうがよさそうな人。僕はクレバースは好きですが、弟子のヴェルヘイはあまり好きじゃないです。「やっぱりオイストラフ門下は…」と思ってしまいます。
イーゴリ・オイストラフ
父ダヴィートの後を継いで、東欧系のバイオリン界で大きな影響力を持った人。ですが、僕はイーゴリにもあまりいいイメージを持ってません。イーゴリ自身の演奏も好きじゃないし、弟子にも1970年のシベリウスで優勝したリアナ・イサカーゼとかがいますが、やっぱり好きじゃない…。
エリザベータ・ギレリス
オイストラフから離れて、再びストリャルスキーの弟子のエリザベータ・ギレリス(Elizabeth/Elizaveta/Yelizaveta Gilels)について。
名前でピンと来る人は…というか、わかる人は説明しなくても知ってると思いますが、エリザベータはピアノで一世を風靡したエミール・ギレリスの妹です。そしてレオニード・コーガンの奥さんです。
コーガンが惚れ込んだとなればどんな天才的な…と思うと拍子抜けする、他方エミールの妹ならさぞや…と思っても拍子抜けする、大したことない人です。
ボリス・ゴリトシュテイン
1937年のイザイで世を驚かせたうちのひとりですが、ほかの業績はあまり知られていないようです。のちにドイツに移住して教職に着きます。注意するべきは教え子のひとりにザハール・ブロンがいるという点でしょう。
ブロンはわりとあらゆる人に教えを乞うている人なのですが、曲がりなりにもアウアー系であるガラミアン=ディレイ門下の出自を持つ一方で東欧系からも学んでいるというのがちょっと変わったポイントです。
ミハイル・フィフテンホルツ
演奏家としての業績はゴリトシュテインと同じくあまり知られていないようです。ヨシフ・スターリンの時代に政府高官の娘と結婚したところ、義理の親が粛清されたことから巡り巡って神経を病んでしまい、演奏活動休止を余儀なくされ、しかし精神科医の治療を受けて23年越しに復活…という波乱の人生を歩んだ人です。
ストリャルスキーを語らずしてロシアのバイオリンを語るなかれ
以上、ピョートル・ストリャルスキーの弟子筋のバイオリニストから若干名を紹介しました。
オイストラフとかクレーメルとか、伝説的と言われる人々のルーツにストリャルスキーがいたことをわかってもらえたかと思います。
注意深い方は「オイストラフから下でよくね?」と思われたかもしれません。僕がストリャルスキーまで遡りたい理由は、ミルシテインがいるからです。ミルシテインとオイストラフは兄弟弟子だったと言えば、「あーそういえば…」となりませんか?また、この時代のアウアー門下生の中でもミルシテインがどこか違った雰囲気を持っているのも、「ストリャルスキーに教わったから」という観点で見てみれば面白いのではないかと思うのです。
ミルシテインの話を始めてしまうと締められないのでこれぐらいにしておきましょう。
ともあれ、ピョートル・ストリャルスキーは、現代東欧系のバイオリニストの系譜を語る上で決して忘れてはいけない人です。ストリャルスキーに言及することなくオイストラフやクレーメルを語るのは片手落ちだと思います。