日本人が知らないバイオリニスト

好きなバイオリニストのことを書きます。内容はすべて主観です。

ダニエル・ハイフェッツ

ダニエル・ハイフェッツほどの重要人物が日本で知られていないのはちょっと異常事態だと思います。30年以上のキャリアがあり、ハイフェッツ国際音楽大学創始者で、今も上海アイザック・スターン国際バイオリンコンクールの審査員を務めているのですが。

 

チャイコフスキー:バイオリン協奏曲

ダニエル・ハイフェッツiTunes日本語版では聞けないようなので(僕はいつもiTunesで聞いているので…)、Youtubeから。

https://www.youtube.com/watch?v=t78PeDf8TgM#action=share

 

ライブ録音の質があんまり良くないのですが、金属っぽい軋みの多い音色で、ストリンジェントを強調して激しく迫る雄々しい系の演奏なのがわかります。軋みが多いという点ではかなり徹底しています。チャイコンなので多少とも似た演奏はどこかで聞いているはずですが、普通なら優しく流しそうなところもガリっと削り取ってます。

オケも導入はふわっとしてますが、サビはピキピキしてますね。

※追記。ダニエル・ハイフェッツ1990年ごろに演奏家としては引退しているようです。インタビュー記事によれば、生まれつき両側の尺骨神経溝が浅く、1980年代に演奏中に小指が動かなくなったり感覚がなくなったりする症状が現れ、手術をしてもさほどの改善がなかったとのこと。

ダニエル・ハイフェッツとは?

ダニエル・ハイフェッツは1948年11月20日生まれ。南カリフォルニア出身。

ダニエル・ハイフェッツの先祖は…

母ベツィ・バロンはドイツから亡命してきたユダヤ人です。父ミルトン・ハイフェッツはのちに高名な脳神経外科医になるのですが、ダニエル誕生時はまだ医者になりたての青年でした。ミルトンは1970年代に脳動脈瘤クリップの開発に携わり、その成果は「ハイフェッツクリップ」として全世界で圧倒的なシェアを誇りました。のちに名古屋大の杉田虔一郎が「杉田クリップ」を開発してその牙城を崩していきます。とはいえ、脱線はこれぐらいにしておきましょう。

ダニエル・ハイフェッツは「あの人」の孫か?

大事な話をします。ミルトン・ハイフェッツの父オスカーは、ウクライナポグロム(虐殺)を逃れて亡命してきたユダヤ人でした。

はい、ダニエル・ハイフェッツヤッシャ・ハイフェッツの血縁者ではありません

いま「ダニエル・ハイフェッツ」で検索すると1位にヒットする個人ブログでは「ハイフェッツの孫」と勘違いしてますが、違います。歳はちょうど孫ぐらいなんですけどね…。というか孫だったらもっと日本でも知られてたのかもしれません。

勘違いしたのは日本人だけではないようです。2015年にミルトンが亡くなったときの記念記事によれば、ミルトンの長男のローレンス(つまりダニエルの兄)も医師として大成するのですが、絶えず「バイオリニストのハイフェッツか、医者のハイフェッツか?」と尋ねられたとあります。いわんや、ヤッシャ存命中に歳が近かったミルトンは何かにつけて「兄弟か?」などと言われたに違いないこと、察するに余りあります。

でも音楽一家

ミルトン・ハイフェッツの子の三兄弟は、ダニエルだけでなくみんな音楽ができるようです。ローレンスもピアノを嗜んでいてアマチュアバンドで演奏しているとか、三男のロナルドはチェロができてベツィの85歳の誕生日には3人でメンデルスゾーンのピアノ三重奏曲を演奏したとか、なんかすごい一家です。

ちょっとハイフェッツ一家が面白すぎて脱線が続いてますが、大事なことなのでもう一度言うとダニエル・ハイフェッツヤッシャ・ハイフェッツの血縁者ではありません

まあヤッシャ・ハイフェッツに象徴される「ユダヤ人が強い時代」を構成した一人としてダニエル・ハイフェッツを数えることもできなくはないと思います。ダニエルはエフレム・ジンバリストの弟子なのですが、ジンバリスト門下でも有数の成功を収めています。

ダニエル・ハイフェッツの音楽歴

本題に戻りましょう。ダニエルは6歳でバイオリンを始めます。

16歳で、カーティス音楽院のジンバリストに弟子入り。カーティスに入れた理由は「ハイフェッツがここで学んだ」という宣伝になるから…という噂だか冗談だかが当時生まれた模様です。

師匠のジンバリストはアウアーの弟子なので、ヤッシャ・ハイフェッツから見るとダニエルは甥弟子とでも言いましょうか。そんな言葉があるのか知りませんが。

ともかく、上のチャイコンにしても、アウアー系と聞けば「そうだよね」と思える、メカニックが安定してかっちりした印象があります。

ジンバリストと同じ時期にヤッシャ・ブロツキーにも教わっています。ヤッシャ・ブロツキーはリュシアン・カペーの弟子ということでイヴァン・ガラミアンと同門。

きな臭い名前が出てきましたね。悪名高いドロシー・ディレイ→ザハール・ブロン系統の先代に当たるイヴァン・ガラミアン。ジンバリストはダニエルの在学中に退任したらしく、ダニエルは続いてガラミアンの元に学んで卒業を迎えます。

さらに近い時期にはヘンリク・シェリングのお世話にもなっています。大変な可愛がられようですね。ジンバリスト+ガラミアン+シェリングってこの時代に持てる師匠としてわりと最強である気がします。ほかにいるとすればギンゴルトぐらいですかね…。

まあミーハーな話を控えるにしても、ポップ系のガラミアンと渋い系のシェリングの両方から教わったというのはちょっと珍しいポイントかもしれません。

そしてダニエルの可愛がられ話はまだ続きます。シェリングの紹介で、ダニエルはなんとダヴィート・オイストラフに紹介されるのです。

これってすごいことですよ。

ガラミアンはカペーの弟子とはいえ、もともとはアウアーの孫弟子です。ジンバリストと並んでアウアーの血筋です。シェリングはティボーの弟子なので、つまりこの三人はみんな西欧系のスクール出身です。

オイストラフ門下の(というか正確にはストリャルスキー門下の)東欧系スクールは活動の中で西欧系と交流しつつも、系譜の上ではわりと独立を保っています。数少ない例外がナタン・ミルシテインです。ミルシテインはアウアーとストリャルスキーの両方から教わっているので。

で、そういう「門外」のオイストラフにキャリアの早い段階でつないでもらえたというのは、ダニエル・ハイフェッツシェリングはじめ西欧系スクールから篤い期待をかけられていたことを物語っているのでしょう。さらにオイストラフの紹介でダニエルはソロモン・ヒューロックという仕掛け人に出会い、実はこのヒューロックがいろいろなことの鍵を握っているようなのですが…、話が広がりすぎているので今日はこのぐらいにしておきます。ソロモン・ヒューロックも面白い人のようなのでいずれ調べてみます。

1969年、ダニエル20歳か21歳の年に、メリーウェザー・ポスト・コンクールで優勝。1978年にはチャイコフスキー国際コンクールで4等賞を取っています。そしてそのときの賞金を、アレクサンドル・ギンズブルクとナタン・シャランスキーの家族に寄付しています。この2人はソビエトで反体制の廉で投獄されていたというのですが…、やはり切りがないので深入りは避けておきます。同じユダヤ人として、ということかと思います。

ダニエルは教職としてジョンズ・ホプキンズ大学、カーネギー・メロン大学メリーランド大学カレッジパーク校を歴任します。

そして1996年、ついにハイフェッツ国際音楽大学の創設に至ります。

えーと、大事なことなので3回目ですが、ハイフェッツ国際音楽大学ヤッシャ・ハイフェッツゆかりの大学ではありません。ダニエル・ハイフェッツが作った大学ですのでよろしく。

ハイフェッツ国際音楽大学はもとより、創設者のダニエル自身も今日に至るまで世界的な存在感を保ち続けているようです(日本を除いて)。

ちょっとハイフェッツが有名人すぎて調べるといろいろ出てきすぎるのですが、切りがないのでこれぐらいにしておきます。いずれこのページに追記するかもしれません。

ハイフェッツ原理主義者に一泡吹かせよう!

ダニエル・ハイフェッツの演奏はかなりハードコアな漢気系です。むさ苦しいまでに漢気溢れる演奏が好きな人におすすめです。

そうでもない人も、ダニエル・ハイフェッツという名前はぜひ覚えておいてください。

そもそも国際的に重要な人物ですし、何よりハイフェッツです。

ハイフェッツ原理主義者を見つけたら、「チャイコフスキー国際といえばハイフェッツが賞金をさー…」などとことさらに話してあげましょう。「え、ハイフェッツの時代にチャイコフスキー国際はまだないんじゃないの?」という反応があったら「あ、ヤッシャじゃなくてダニエルのほうね」と煽ってあげましょう。「ああ、そっちか…」と知ったかぶってきたらチャンスです。「ダニエルって偉いよね。あの父親がいるんだから、七光りで成り上がっていくルートもあったはずなのにねー」とでもなんとでも追撃していけば、原理主義者が「えーと、その父親ってヤッシャ・ハイフェッツのこと…?」と聞かざるをえなくなるまで秒読みです。